生命(人生)に質(の優劣)はあるのか?生命が価値があるためには質(の優劣)があってはならない
だが価値そのもののために質(の優劣)がなければならない
→ここで言いたかったのは、価値というのは自動のものだから、つまり先天的なものだから、
人生がもともと価値をもったものだと考えようとしても、できない、価値というものは一方的に人生を断罪する
無価値と断罪される人生もあるだろう。
ということだ
極端な例をあげると、中絶されたこどもは
私は昔、中絶されたこどもは「人生の価値」を考えるのに不適格だと思っていた
人生とは生きてから評価されるものだし
生きていないのなら評価は受けつけない
ちなみに、堕胎される子供に、人権はない。
と思っている
過激な思想だろう
倫理学の世界で、これを回避しようとして、学者たちが、骨折っているのだ
私だって、堕胎なんてことがなければ、どんなにいいかと思う、それは社会の構造に対する不満だ、専ら
私は、人間の価値とは、自分を自覚するところから発すると、思っているのだ、危険なことを言おうとしていることはわかっている
胎児にも自我はあるだろう、だが未熟だ
高度な思考を有していない
自分が死んでもわからないだろう
これが私の「野蛮な倫理観」というやつだ、すぐれたものをもちあげ、劣ったものをおとしめる、人間の本性的かもしれないが理性・熟慮からかけ離れた、「感官的」倫理観というやつだ、
私の未熟さに、倫理感情の低さに、唖然とする。
つまり、私は優生学を支持するのであり、それが人間のさらなる(?)偉大さを信ずるからだとしても
私は恥ずかしくてこんなことを、倫理学の教授の前で喋れなかった。
私の倫理観が「奇形」であることを、控えめに言って未熟であることを
十分理解し、恥じていたから。
だが、私の「感官」はそう言っているし(胎児に人権は認められないと、思えて仕方ないし)
もっとましな考えがあるなら、誰か教えてくれ!
私は倫理学的に行き詰っているのだ、感官に邪魔されて。
長くなったからこのへんにしときたいと思う
次の話へ行こう
***
確信の効果。
確信、信ずること、信仰、
は、信ずるものであってこそ、(結果が)到来してはならないものなのだ。
ブランショの言う「留保の意味は、この世においての意味は、待つ感情を輝かせることにあるのだ」(原文ママではない、「死の宣告」の一文を、私が要約したものだ)
つまりは、この世の意味は、この世の維持にあるのだ(ルター)
とは話が早すぎるだろう、もうちょっと遊弋したい
俺は、プラグマティズムと、隠遁主義の折衷点を探している
祈ることだけに意味と価値を見出す(その理由は意味と価値がないからである、希望だけがあるからである)
立場をとることもできる。全面的に賛同できる。
だが「行動のみ」の人生観、それは人生観にとどまるだろう、人は行動のみになることはできない、カント流に言えば「(知覚の先取的認識)その原理--およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」行動は現象=経験に導かれ、経験は感覚を含んでいるからである
だが人は極度に行動者になることもできる
それはやはり力を持つのである。
俺は、自分で言うが、祈りの無力=力と、行動の力=無力をバランスよくもっている
だから引き裂かれている、どちらにも軍配をあげられずにいる、私の行動は、あるいは無-行動は、ちぐはぐだ
こんなことを言いたかったんじゃないんだ…
ただオッカム関連の書籍を読んでいて、次の言葉が非常に気になった
「直知認識の働きによって、(一)私は自分がこの石を知性認識していることを確信するのか。あるいは、(二)私は自分が知性認識していることを確信するだけであって、この石を知性認識しているのか否かを直知認識の働きによって確信するわけではないのか。第一であるということはできない。」(Walter Chatton『命題集講義』序論第二問題第五項)
俺には、これが、考えてもどうしてもわからなかったのである
言いたいことが解らないという意味ではない、この「洞察」が、どうしても私の上の核心と関連があるような気がして仕方なかったのである
祈りを廃棄するヒントが、この文章に隠されている
まだわからない。しばらく考えてみるつもりだ、たぶんひとはなんでこれが(引用文が)祈り-プラグマティズムに関連あるのか、わからないだろう
俺にはわかりそうで、心の深くでわかっているのに、口にのぼってこないのだ
これは俺の頭の成熟を待とう。
***
ノートに書きつけはまだあるけど、長くなったからこれくらいにしよう。
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